19世紀の新聞王

記念すべき第一号の記事はなんと…!情報伝達市場に革新を起こした男!

エミール・ド・ジラルダン!!

……誰?

 

Contents


  • 概要
  • 功績
  • 小ネタ
  •   反省

概要


エミール・ド・ジラルダンが何者なのか簡単に言ってしまうと、

  • 19世紀のフランスを生きました
  • 数々の新聞を創刊し、世に広めました

という二つだけ。

 

具体的には1806年6月21日に生まれて1881年4月27日に死亡という経緯を持ち、フランスの第一帝政期からブルボン王朝、七月王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政という、政局が安定しない激動の時代を生きた人。

彼が創刊した新聞は週刊誌であった「ヴォルール」をはじめとして、当時大ヒットした日刊紙「プレス」、独仏戦争時の世論を動かす間に至った「リベルテ」など、彼が創刊した(もしくは運営した)新聞の数は多岐にわたる。

 

 

・盗人の成功

最初に創刊した「ヴォルール」はフランス語で「盗人」という意味。

その意味の通り、この新聞は剽窃新聞で、当時出回っていた新聞記事の良い記事を切り取ったパッチワークのような新聞だった。

 

この新聞が画期的だったのは、様々な分野の情報を多岐にわたって提供したと言うところ。当時の新聞は思想・主義・信条といったことを主張するための媒体であるという色合いが強かった。

そのためいろいろな情報触れられるようなツールではなかったが、この傾向を一変させて、商品としての側面を押し出し始めたのはジラルダンの成果といえる。

 

 

・新聞を広めるアイデア

「ヴォルール」は週刊誌だが、彼は日刊紙でも成功を収めている。

当時の日刊紙購読料は年間で80フランであったが、彼が創刊した日刊紙「プレス」は購読料は40フランという格安であった。

これは広告収入を増やすことで実現したものであり、現代に通じるこのアイデアも彼の成果であった。

主流であった政治的主張を大幅に減らして薬や養毛剤、クレンジング・クリームといった商品の広告を多めに乗せている。つまり、コンプレックス商法を編み出したのも彼ということになったりする…かな?

 

ジラルダンという人物が革新的であったというのは、こうした宣伝・広告戦略で時代の先を行っていた、というところに尽きるかと。

「ヴォルール」の創刊においても、創刊準備号や趣意書といった広告に500フランをつぎ込み、見事500人分の予約購読料として合計1万フランを手に入れたという。

当時の時給が平均で5分の1フランであるということから考えてみれば、この額が一体どれだけのものか想像に難くない…(時給の5万倍ということは現代日本においてはだいたい500万円)。

 

ざっくりといってしまえば、薄利多売という戦略を駆使して新聞という媒体を商品にまで押し上げたのがエミール・ド・ジラルダンの成したことといえる。

 

功績


・新聞の原型

彼の成果はほとんど新聞というメディアに集約されているといってよい。

まず「ヴォルール」で一般新聞という枠組みをつくったこと。

当時は文芸新聞、政治新聞という特定分野のみに集中した新聞が多かったことに加えて、ばら売りをしていなかったので雑多な情報に触れるということが意外と難しかった。

 

そして1836年7月1日に創刊したプレスは購読料の安さとそれを支える仕組みを作ったというのはさっき述べたとおりだけど、政治的主張を極力排除したこの一般紙は内容の充実と面でかなりの工夫がなされている。

 

国内外政治および各紙論調、学芸欄、雑報、地方ニュース、訴訟、商業、科学、著名作家による紀行文、株式市況などの分野が記事として各ページが考案された。

この構成だけを見れば現代の新聞とほぼ同じであり、言ってしまえば新聞と言うメディアは200年近く進化していない、もしくはジラルダンの手によって完成してしまっている。

 

また、新聞小説のアイデアも彼によるものであり、「プレス」においてオノレ・ド・バルザックの「老嬢」が初の新聞連載小説として長期にわたり各話が掲載された(学芸欄などではなく、紀行文の部分に掲載されたらしい)。

 

・薄利多売極まれり

新聞における成功が目覚ましいジラルダンではあるけれども、一応出版業界においても成果がある。

 

1835年に出版した「文学パンテオン」という大著があるが、これは歴史的な名著1000作品を収録した大全集であり、大全集という発明を広く世に知らしめたのは彼の功績といってよい。

ただ値段は10フランと割高なので、1冊あたり10分の1フランとして分冊を行い、民衆の広くに渡って手に入りやすくした。

 

ちなみに”広く世に知らしめた”のはあくまでジラルダンだけど、最初のアイデアとしてはバルザックが実行しているとのこと。

 

ジラルダンの場合「ヴォルール」「ラ・モード」「ジュルナル・デ・コネサンス・ジュティル」といった新聞で成功を収めていたので、宣伝媒体に事を欠かすことが無かった。

しかしバルザックにはそうしたツール、及び信頼を得た購読者なるものがいなかった。そのためにバルザックは成功を見なかった。

 

「文学パンテオン」以外にも「ポケット版フランス地図」「標準世界地図」「フランス語辞典」などがあり、「ポケット」「辞典」は1フラン、「地図」2フランで出版している。また「フランス年間」という生活百科事典は130万部という空前絶後ベストセラーになっている。

 

小ネタ


・名前も剽窃するもの

エミール・ド・ジラルダンは私生児であった。彼が生まれた当時は第一帝政期、かのナポレオン1世の時代であった。そのため時代はナポレオン戦争下にあって、戦地へと夫たちが赴く間に妻が不義の子を宿すといったことが少なくなかった(私生児の出生率が20パーセント)。

 

ジラルダンもその一人であり、彼の父親である陸軍大尉アレクサンドル・ド・ジラルダン伯爵はジラルダンを陰で支えることはあっても、スキャンダルを嫌って「ジラルダン」の姓を名乗らせなかった。

エミールはその復讐とばかりに「エミール」という半ば自著伝に近い本を1827年に出版し、翌年には第二版を重ねるほどになった。関係者が読めば誰のことを言っているのか分かるような暴露本になっていたこともあり、父親はとうとう折れて「ジラルダン」の姓を名乗ることを許したとか。

 

・政治的で現代的

政治的主張をなるべく廃した「プレス」がジラルダンにより創刊されたけれども、実はがっつり政治の世界へ踏み込もうと何度も試みている。

 

1834年の国会銀選挙には代議士として当選しており、また、1848年の二月革命時には臨時政府の無為無策を激しく非難する記事を投稿している。二月革命後の第二共和政下において、ルイ=ナポレオン(後の第二帝政を築くナポレオン3世)と選挙対策の相談を何度も行い、自身の行政改革案覚書を渡すなどしている。大臣として起用されることを期待していたが、生涯のうちでついぞなることはなかった。

 

ジラルダン自身は社会の成熟と繁栄が目的としてあって、民衆を教育する意味合いで新聞を発行しているところがあった。「ジュルナル・デ・コネサンス・ジュティル」などは実用的な科学知識を詰め込んだものであり、その理念を半ば実現したものでもあった。

また、彼は新聞会社を運営するうえでも成功しており、その経験を国家にも応用することができるとして、指導大臣・収入大臣・支出大臣という3人の大臣と、その下につく30人の長官で運営する政権を覚書に書いている。これは大臣を社長と副社長に、長官を専務や部長に見立てた配置に近い。

 

実際に彼の運営に関する自信の根拠として、印刷所の工員からの好評があった。ジラルダンは経営精神においても先進的で、8時間労働制、葬儀のための社員共済、労災、会社利益の給与還元といったアイデアを実行に移している。

反省


 

参考の本やwikipediaを読むのに1週間近くかかり、そこからぐだぐだとwordにまとめるのに更に1週間近くかかり、そしてこの記事に落とし込むのに再びぐだぐだと1週間近くかかってしまった……。

一番難しいのが必要な情報と不必要な情報の選択に尽きると思う。参考文献はがっつりとエミール・ド・ジラルダンという人物の徹頭徹尾、ゆりかごから墓場まで書いているわけなんだけど、はじめて見る人にとって一体どういう紹介の仕方をすればよいのかということが、当たり前ながら難しかったよ。

 

参考